Memoir : 悶々としたサバイバルな日々
アメリカに来て2ヶ月もたたない83年1月に、タイムズ・スクゥアで襲われてから、しばらくはびくびくしながら外を歩いていたが、人間慣れるもので、日一日と力が付いてきた。相変わらずジャズ・フォーラムのジャム・セッションには通い続けている。ニューヨークに来て始めてセッションに参加した時は、緊張して本当に足がガクガクしたものだが、だんだんと度胸もついてきた。

ここでジャズ・フォーラムについて少し書いておこう。

場所はハウストン・ストリート. 近くのラファイエット・ストリート。地下鉄の駅ではブロードウェイ・ラファイエット駅。ロフトをそのままジャズ・クラブにしたので、倉庫のように馬鹿でかく、天井も高い。ここはオーナーがトランペッターで、毎週火曜日がジョー・ジョーンズ・ジュニア(パパ・ジョーの息子)のジャム・セッション。他の日にはたくさん有名なミュージシャン達が出演していたが、その中でも印象に残っているのは、2台のグランド・ピアノを横に並べてやるピアノ・デュオだ。デュオといってもピアノだけでなく、リズム・セクションがちゃんといる。ベースはメジャー・ホリー、バスター・ウイリアムス、レイ・ドラモンド、アート・デイヴィス、ロン・カーターなど。ドラマーはグラディー・テイト、ビリー・ヒギンズ、リロイ・ウイリアムスなど、それだけでもすごいメンバー。そしてピアニストには、バリー・ハリス、ハンク・ジョーンズ、トミー・フラナガン、シダー・ウォルトン、ウォルター・ビショップJr.、ウォルター・デイヴィスJr.、など。つまりハンク・ジョーンズとバリー・ハリス、バリー・ハリスとトミー・フラナガン、ハンク・ジョーンズとトミー・フラナガンなどの組み合わせが、すごいリズム・セクションと一緒に演奏するのだ。

 そしてうれしい事に、いつもジャムセッションに行っている人には、ジョー・ジョーンズJr.が只券をくれる。これを持って行けばタダでこういう人達を聴けるわけだ。ピアノ・デュオ以外にも、テレンス・ブランチャードがいた頃のアート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズなどが出演していた。金の無い僕でも、たくさんの一流ミュージシャン達をビール一本だけ買い、それをチビチビなめながら、ミュージックチャージ無しで聴かしてもらえたのだ。

その他にも、数限りなくある色々なライブを聴きに行っていた。込んでいる店などは(例えばブラッドレイズなど)バーカウンターの辺りにいれば、誰も注文など取りに来ないので、飲み物すら買わず、まったくのタダで聴けた店もたくさんあった。

そうこうしている間に、ついに観光ビザの三ヶ月も過ぎ、いよいよこれからはオーバーステイ。何の保証も無く、見つかれば強制送還だ!と気合を入れ始めた頃、お金の方が少々不安になってきた。全くお金が無くなってから仕事を探したのでは、心もとないので、とりあえず何かアルバイトを見つけることにした。

そこは、リンカーン・センター近くにあったラーメン屋さんでのキッチンヘルパー。でもここは8時間も働かなければならず、単純労働がダメな僕には無理で3日でやめた。でも印象に残った事を書いておく。

ここの店のキッチンで働いているのは、コック長の台湾人、その他は中国人2人、日系人、そして僕。ここのコック長は台湾語の他は日本語ができるが、英語はダメ。中国人の2人は中国語と英語ができる。日系人はほとんど英語だけ。そしてコック長の台湾人と中国本土の人とは、同じ中国人でも、全く言語が違うので、僕を通さないと話が通じない。よって、コック長は僕に日本語で話し、僕がひどい英語で中国人と日系人に通訳する。要するにキッチンでは従業員同士ほとんど話しが通じない、という状況であった。でもそれが逆に幸いしてか、ケンカも無く、けっこう和気あいあいと仕事をしていた。一番新入りの僕が、骨がギザギザと突き出て、指が引っかかって切れそうになる、タレに漬かった鳥のから揚げ用の肉を、こわごわと掻き回していると、中国人の一人が「お前はミュージシャン、指は大切なんだろ?」と言って代わりにやってくれたりもした。このニューヨークにも、こういう人がいるんだと、これには、ほろっとさせられ、涙が出そうになってしまったのを今でも覚えている。

日系人の青年。顔はまったくの日本人顔。でも日本語は「コンニティワ、アラガトウ。」(こんにちは、ありがとう)程度。でもいつも明るく、ラーメンを茹でながら、見事な英語でミスティーを歌っていた。さすがアメリカ人!と思ったものだ。

 ここはみんな良い人が集まった店だったと今でも思っているが、生まれて始めての8時間のアルバイトは、やはり僕にはきつ過ぎた。    その後他の店でキッチンヘルパー、昼だけ4時間、というのを見つけた。ここは1ヶ月はもった。

そこもやめた後、また1、2ヶ月ぶらぶらとしていたら、またまた金欠状態。キッチンヘルパーでは稼げるお金が決まっている。よってたくさんの時間働かなければならず、音楽に使える時間が短くなってしまう。短時間で一番多く稼げるのは、高級日本料理店でのウエイターらしいと小耳にはさみ、よし、それに挑戦しよう、ということになった。

ウエイターの経験の無い僕は、まずはバスボーイというのからスタートさせられた。これはドリンクの注文、セット料理の準備、後片付けが主な仕事。誰でもすぐ覚えられるはずの簡単な仕事、ということで始めたのだが、まったく経験の無い僕にとっては死に物狂いだった。いっぺんに三つ以上の事を頼まれるとパニックになってしまう。毎日店の反省会で僕の名前の出ない日は無かった、という日々が続く。

客に「ラーメン・オレンジ」と言われ、バーに行って「変なお客さんが、なんか、ラーメン・オレンジって言っているんですが、そんなもんあるんですか?...」と言うと、バーテンダー何も言わず、したり顔でカクテルを作り「はいこれ、ラム・アンド・オレンジ」と言って僕のトレイに乗せた。「あー、なんだ、ラーメン・オレンジじゃないんだ...そうだよな...ハハハ...」。

そんなこんなで一ヶ月ほど経った頃だっただろうか。その日もみんなに怒鳴られながら、ランチタイムを終えたある日のこと。今日はディナーにも出なくてはならない...そう思っていると急に手が震えだし、思い切りバカ笑いしたい衝動にかられてきた。自分でもヤバイ、と思い深呼吸をする。と、「お前にはここは無理だからやめなさい!」と天からの声を聞いたような気がした。

 しかし店側も急に、今やめると言われても困ったようで、「もう少ししたら慣れると思うよ。音楽だけで食っては行けないんだから、このくらいの仕事は覚えた方がいいよ。」などと女将さんに引き止められる。たまりかねて「もう今夜は絶対に無理です。もしやったら本当に精神障害を起こしてしまいそうです!現にもう手がこのように震えています。」と手を見せながら言うと、御主人が見かねて「彼がそれほど言うんだから、もうやめさせてあげなさいよ。僕も彼にはこういう仕事は無理だと思うよ。」と言って解放してくれた。

今までの給料とその日のチップ170ドルほどをもらって外に出た。その頃の僕にとってそれは大金である。万が一ホールド・アップにでもあったらと、奮発してタクシーをひろいホテルまで帰って来た。

 ホテルの部屋に入ると、さっぱりした気分になっていた。フーッツ、終わった...でもこれから生活どうして行くの?

とにかくここタイムズ・スクエアー・ホテルは安ホテルといっても月$360。ここに住み続けるわけにはいかない...などと思っているうちに、ブルーコーツで一緒だったアルトのリンちゃん(林文夫)や、テナーの小山ちゃんが(小山義弘)達がここニューヨークにやって来た。そして最初はリンちゃんもこのホテルに住んでいたのだが、チェルシー・エリアに$325の部屋を見つけてそこに住み始めた。しばらくして小山ちゃんがそこに引っ越して行った。今のチェルシーしか知らない人には信じられないだろうが、この頃はチャイニーズ・レストランが一つあっただけで、ヴィレッジとミッドタウンにはさまれた、アパート街。何も無いエリアであった。

 ちなみに83年でこの家賃($325)というのはその当時でもかなり安い。キッチンから伸びる3畳ほどの小さな部屋(というか奥に通じる廊下というか。)の奥にずっと広い(十畳)ほどの大きさの部屋があった。壁はニューヨークの古いビルならではの、赤レンガ。これはけっこうみんな気に入った。もう使われていないが、暖炉まで付いていて、昔のニューヨーク生活を垣間見られるような、そんな部屋だった。ちなみにこのビルは、その当時でも(83年)築100年は超えている、という事だったが、雰囲気はすごく良かった。  六畳ほどのキッチンは、日が当たらないので昼間から電気を点けなければならず、部屋全体としては、どこにも仕切りは無いのでプライバシーはゼロ。でも3人で住めばかなり安く上がるという計算から、僕も5ヶ月のホテル生活を切り上げ、そこに引っ越すことに決めたのだった。という訳で元ブルーコーツのメンバー3人の共同生活が始まった。以降、僕はここに17年間住む事となる。ちなみに今のアパート、マンハッタン・プラザに移る前の(1999年)部屋代は$560ほど。その17年間に数多くのルームメイトと暮らしたが、けっこうみんな仲良くやって、表立ったトラブルはほとんど無かった。

そこに引っ越して行った頃の僕にはベットは勿論、マットレスを買う余裕など無く、しばらくは床の上に毛布をひいて寝ていた。朝起きるたびに体中痛い。刑務所に入った夢を見たりした。

 ニューヨークではよくマットレスが捨ててある、というのでそれを拾ってこようと決意して、それまでは我慢することにした。結局3週間ほどたったある日、近くの道に捨ててあるのを、リンちゃんに手伝ってもらって運び込んだ。その日はとてもリッチな気分になって寝られたものだ。

 そんな訳で安いアパートに移れて助かったわけだが、ほっとしすぎてしまい、気が付いたら残りの全財産が$200以下になってしまっていた。来月の部屋代払えるかな?もうウエイターのアルバイトはトラウマだし、絶対無理だ。。。で、何をしよう?

 何か僕にできそうな仕事はないかと、友達に色々と訊きまくる。お金はいくらケチっても毎日数ドルづつは必ず減っていく...

ちょうどその頃ニューヨークで流行っていた、漢字Tシャーツの漢字でも書いてみよう、と習字用セットを買ってきて、文字を書き、そういう仕事をやっている友人のところへ、サンプルを持って行ったが、もうすでにそのブームは終わりかけているので。。。と断られ...

 親父に手紙を出して、少しどうにかなりませんかね?と訊いてみたら、お金は送る、でもその金で航空券を買って帰って来い!という返事がきた。あっちゃーっ。。。

 そしてついに持ち金$100を切った頃に、新しく開店するランチタイム・デリバリー専門店でキッチンヘルパーを探している、と教えてくれた人がいた。特に早番の人が必要とのこと。それだと朝6時半に店に行かなければならない。完全夜型の僕としてはかなりキツイ選択だったが、もうノーチョイス。毎朝5時半起きの生活が始まった。まだ暗い街中を歩いて出勤。寿司めしを炊くのが僕の仕事。そして昼になると色々なオフィスに売りに行くわけだ。でも朝早いのは別として、ここはけっこうマイペースでできるし、売りに行く時はウォークマンだって自由に聴ける。けっこう僕にあった仕事だった。

 そんなわけで、その月の部屋代も払えて、最低限の生活費にはとりあえず、事欠かなくなった。

アメリカ生活一年目は、こうして何をやったら生活できるのか、という焦りと、現実にお金が無くなっていく不安とで、悶々としたサバイバルな日々となったのだった。(違う悶々を期待していた皆さん、あしからず。)