Memoir : アルバイト、バリー・ハリス、そして初めてのギグ(83年・冬)
その弁当屋でのアルバイトも慣れてきた。そして働いている人達のほとんどが気楽な人達だったので、バスボーイ時代のように手の震えも来ず、僕にも勤まった。そしてあのケネディー空港へのチクリ君とはほとんど顔を会わせることもなかった。でも超夜型の僕にとっては朝5 時起き、というのはとてもキツかった。ジャムセッションやライブなどから帰ってきたら、もう数時間しか寝る時間が無い。勿論アラームをかけて寝るのだが、起きる時間が気になって眠れない時もある。冬などまだ真っ暗いなか、地下鉄からの蒸気が吹き上がってゴミが舞い散る冷たい道を、寝ぼけながら歩いて行く。でも店からは1時少し過ぎ頃には帰って来られて後は自由。とりあえずは昼寝というのが日課だった。

アルバイト先のキッチンには、70年代から始まったアメリカ寿司ブームの時に、日本から十二倍のギャラで引き抜かれて来たという、生粋の寿司職人。そして寿司大学を卒業してきた寿司マン。キッチン・ヘルパーにはいつも片足や、つま先で立っていたり、股を大きく広げたりしながら包丁を操っている、仕事中も決してトレーニングを忘れない、ダンサー志望のタケちゃん、そして僕。

まず僕と店のマネージャーが朝6時30分ごろ出勤。一番の新米である僕が米を洗い寿司飯を炊き始めるのだが、冬などは米を洗う水の冷たさときたら半端なものではなかった。  しばらくするとタケちゃん、そして2人の寿司職人が出勤して来る。僕はその日の分の寿司飯が用意できたら、すでに出来上がっている寿司をケースに入れていく。そして11時半ごろになると一人々々分担が割り当てられているオフィスに売りに行くのである。売りに行くだけのアルバイトも4,5人はいた。売りに行く時はそれぞれが一人々々になるので何をしようと自由。さっそくウォークマンを取り出す。弁当を入れたカートを引きずりながら、その時大ヒット中だったマイケル・ジャクソンの「スリラー」などを聴いて、イェーッ、と叫び、タップを踏みながら、人ごみの中をさっそうと歩いて行く。とりあえず僕にもできるアルバイトが見つかったのでうれしく、道行く人々に「よぉっ、君達も頑張ってるかい!」と声をかけたくなってしまうほどの元気さだった。

弁当を売った後は、売上と売れ残り品を店に持って帰る。売れ残った寿司は店で食べても、持って帰ってもいい。ニューヨークに来てからは自前ではほとんど食べたことの無い高級食品、“寿司”を毎日のように食べられるなんて、最初のうちは夢のようだったが、一ヶ月も経つとさすがに見るのも嫌になってきた。が、食費節約の為毎日食べていた。しかししばらくすると、寿司だけでは売上が伸びないからという理由で、日替わり弁当も出すようになった。これにはみんな喜んだ。これで寿司以外も食べられる!

ある日の弁当はカレーライス。みんな配達が終わり帰って来て、いつものようにその日の残り物で昼食が始まった。

アルバイトの中にはアメリカ人も数人いた。見ているとその一人、寿司を取り出し、それをどんぶりに入れる。僕がなに?と思って見ていると、どんぶりに入れた寿司の上にカレーをかけ、美味しそうに食べ始めた。そして隣のアメリカ人にも、「これこういう風にして食べると美味い!」と言っている。数人のアメリカ人が寿司にカレーをかけ食べ始めた。我々日本人アルバイト達は驚いた。さすが発明の国、アメリカ!

しかしこれには生粋の寿司職人がむっとしだした。「おい、俺の握った寿司、そんなにまずいか?いったいなんだと思ってるんだよ!」と言っている。

アメリカ人は英語で説明してもらっても、彼が何でそんなに気分を害しているのか、よくわからないようだ。これは自分達がもらったもの、それをどうやって食べようが勝手だろ、と言う意見。しかも誰もまずいなんて言っていない...。あげくには、「でもこれ、こうやって食べると本当にいけるよ、あんたも試してごらんよ。そしたらわかるから。」と全く悪気無く、あっけらかんとその寿司カレーを寿司職人に差し出したりもしている。

「うめえわけねぇだろーが、そんなもの!てめえら外国人っていうのは本当に、まったくわかってねぇなぁー、もぉおーー。」と寿司職人。

「あのー、外国人って、ここでは我々の方が外国人でして、しかも僕なんかすでにオーバー・ステイしているので、正式な違法外国人...」と僕は口には出さず、心の中だけで訂正したりして...とにかく日米戦勃発か?と思ったころ社長登場。

寿司職人に「まぁSさん、今のところはこらえて。あとでゆっくり彼らに言っておくから。」

その後我々日本人も含め特別な食べ方をしたい人は、自分の家まで持ってかえってから、ご自由に。」というオタッシが出た。

そしたら今度は寿司のネタだけはがして持って帰る奴がいたり、人種が変われば常識というものは違う、と考えさせられた。

ところでこの生粋の寿司職人、40才くらいだと思うのだが、ちょっと音楽の趣味が変わっていた。職人らしく演歌を聴いている時もあった。“ほーちょ いぃ いっぽん サラシにまぁーいーて...” などを聴きながら「やっぱり、いいねぇー、こういうの、男気があって...」と言っていたかと思うと、急にシンディー・ローパーになったりもする。「俺、昨日シンディーのコンサート行って来ちゃってさぁ。」などと...

そしてある時は、岩崎宏美が自分の子供に捧げた童謡集のCD を持ってきて、これを毎日、何回もリピートして聴き出した。岩崎宏美は僕もファンなのだが...この職人これを聴きながら、「あー、これはやさしいなぁー、あったかいなぁー、こういうのっていいよなぁー、俺こういうのに弱いんだよ。」などと涙ぐんでいたりする。しばらくのあいだ毎日これだった。こういう職場にはどうも湿っぽくていけない...

キッチンヘルパー(ダンサー志望)のタケちゃん、部屋代節約のため、社長に頼み込んで、なんと営業用冷蔵庫の上にブランケットをひきずり上げ、寝袋を持ち込み住み始めた。冷蔵庫の高さ約4メートル、そこに梯子をかけて上り下りする。冷蔵庫と天井までの隙間、約50センチが彼の住家だった。ここはオフィスビルなので、みんなが帰った後は暖房など無い。勿論トイレはあってもシャワーなど無い。それにそんな高くて狭いところで寝ていて、もし間違って落ちでもしたら死もあり得る。  朝僕が出勤して暖房を入れ、米を洗い始めると、上からガタゴトと音が聞こえ始め、彼が梯子を下ろし、「おはようございます。あー、少しは暖かくなってきた...」と言いながら降りてくる。毎日が冬山登山のようなものだ。さすがこれにはみんな気の毒に思って、色々と安いアパートを紹介したりもしたが、何と言ってもここは社長の好意のおかげでタダ。しばらくは住むつもりか?でもさすがに住み心地は厳しかったようで、(寒さも凄かっただろうが、)しばらくしたら僕のルームメイトになり、1年くらいいたかな?

ここの社長、この人は良い人だった。自分の店で働いている、一人々々の若者達を本当に思ってくれていたようだった。余った食べ物は気前良く、みんなに持ち帰えらせてくれていた。中には余っているご飯ではなく、米その物を失敬して行く奴までいた。これには社長もまいって、「うちには大きなネズミが出没している...」とぼやいていた。

この社長の車に乗せてもらった事がある。マンハッタンの夕暮れ時、青さが増すほどに浮かび上がる高層ビル郡のシルエット、映画の世界だった。

「田中君、きみ音楽やってんだってねぇ?じゃ、こういうの好きかい?」

豪華なカーステレオから大音量で流れ出したのは村田英雄。

「えー...あのぉー、僕がやっているのはジャズでして...あまりこういうのは...」 

「えっ、ジャズ?ふーん、そうかい。でも村田は本当に偉いな、男だよ!俺、こいつの歌大好きだなぁ。でも今度君が演奏する時おしえてくれよ。聴きに行くから。」

「はぁー...」と僕。そう言われてもまだ音楽の仕事など無い。

マンハッタンの夜景と大音量で鳴り響く村田英雄の歌声、脳の中のイメージをつかさどる所が、きしり始めていた。

アルバイト先でのスナップ
生粋の寿司職人さんは、左手側から二人目。
前列の右で腕を組んでいるのが、若かりし頃の僕
そんなこんなのアルバイトをしながらも、いろいろなセッションに毎週何回か顔を出していた。“地獄のスタカフェ・セッション”にも足をガタガタ震わせながら参加した。このころはまだセッションでもほとんど日本人はいなかった時代、だから終わるたびに人々が寄ってきて話しかけてくる。まぁ内容はいつも同じ。なぜ日本人なのにジャズやるの?どこで習ったの?

それらのセッションで知り合った、スティーブというギタリストが、バリー・ハリスに紹介したいからと言って、バリーがその頃経営していたジャズ・カルチャル・シアターに連れて行ってくれた。そこは8th アベニューの28thと29thストリートの間にあった。飾り気の無い木造の倉庫を改造したような部屋。硬いイスとテーブルが並び、奥に高さ30センチ、奥行き5メートル、横幅7メートルほどのステージ。その裏はキッチン。壁には一面にジャズ・ミュージシャン達の縦60センチ、横50センチほどの写真がかけてあり、その中にはベースの鈴木良雄さんのもあった。

そこに連れて行かれると、バリーはすでに20人くらいの管楽器、歌手達の授業中。ドラムはジミー・ラボレス。ベーシストがいなかたので、すぐさまステージにあげられ弾くこととなった。まだこのころは英語がぜんぜん駄目、スティーブが分かりやすい英語で説明してくれるのだが、なかなか何を弾けと言っているのかわからない。バリーの前でメチャ緊張しながら、3時間ほどぶっ通しで生徒のバックをやらされる。知らない曲は冷や汗をかきながら一生懸命聴いてついて行くしかない。今思えばそんなに緊張するようなことはやっていなかったのだが、とにかく何もわからず、しかもバリーも急に僕のまったく知らない曲を弾き出したりするので死ぬほど緊張した。3時間ほど経った頃、バリーが「今日のベーシストもう死にそうなので、今日はこれでおしまい。」と言って終わった。何がなんだかわからないまま、スティーブと一緒に帰ってきた。スティーブに別れ際に「また行くかい?」と訊かれたが、ウーン、とだけ返事しておいた。

しばらくしてまたスティーブに会うと、「バリーがまたヒデを連れて来い、と言っていたよ。」と言われた。とりあえず嫌われてはいないらしい。

83年11月の後半だった思う、僕が日本でお世話になった人が遊びに来ていて、チェルシーのアパートで盛り上がっているところへ、スティーブからの電話。「今からギグがあるんだけどできるかい?」

「ギグって...???」僕には何の事か最初わからなかった。だってその頃まだ日本人にとってはニューヨークに行ってジャムセッションに参加する、というのが夢だった時代である。ギグをもらえるなんて、よっぽどの有名人でない限りありえない、と思っていた。

「8thアベニューの19stと20stの間にあるリックス・ラウンジって知っているだろ?我々のアパートからすぐそばの。」 彼のアパートと僕のアパートは1ブロックも離れていない。

日本から来ている友達が「それ仕事の話じゃないの?やりなさいよ!見に行ってあげるから、やったじゃん!」と僕の電話の会話を聞きながら言っている。

半信半疑でベースとアンプを持って行ったら、すでに彼がギターを持ってステージに上がってチューニングしている。彼の奥さんはシンガー、彼女もマイクを用意している。こうして僕のニューヨークでの最初のギグが始まった。アメリカに来てから1年以上が経っていた。ニューヨークでの演奏はもうジャムセッションで慣れていたので、ほとんど緊張しなかった。かえってスティーブのほうが、「こんなたくさん人のいるところで演奏したのは初めてだ。」と言って緊張していた。しかもこれは一回限りのギグではなく、毎週日曜日の7時から11時まで、食事付きでギャラは1人20ドルだ。

アルバイトも働きやすいところが見つかっている。しかも思いもよらなかったニューヨーク・デビュー。もちろん週一回20ドルのギグで生活できるわけが無いのだが、いつかここニューヨークで音楽だけで生活できるかも?という夢のカケラが芽生えた。

ちなみに、このころ我々チェルシーのアパートの部屋代330ドルほど。そこに3人で住んでいた。部屋に仕切りは無いので、プライバシーはゼロだがガス、水道、光熱費全部入れても1人1ヶ月150ドルほどだった。食費は、アルバイトしている所で食べたり、もらって来られるので、1ヶ月30ドルほど。全部で200ドル以内でやっていた。アルバイト1日30ドルで5日間150ドル、1ヶ月600ドル。プラス日曜日のギグ4回で80ドル。全部で680ドル、楽勝であった。

ここのギグは3年間も続いた。しかもクビになったわけでもなかった。その頃には他のギグも入ってきていたし、3年も同じ所でやっていたので気分を変えたかったから辞めたのだ。とにかく日本も含めて僕の最も長く続いたギグであった。