Memoir : ハーレムでの初めてのギグ 84年8月22日
初めてハーレムでのギグが入ってきた。ドラマーはビートリスという黒人の若い女性、アルトは黒人の青年だったが名前は忘れてしまった。場所はハーレム・ジャズの老舗‘レノックス・ラウンジ’。

この頃タクシーは嫌がってなかなかハーレムまでは行ってくれない。どうしようかと思っていたら、その頃‘良い子の学園’(その後日本育英学園に改名)に勤めていた人が、好奇心のためか、只でライブを聴かせてくれるのなら自分の車で手伝ってくれるという事で一安心。その頃普通の日本人がハーレムのジャズ・クラブでジャズを聴いた、なんてことはかなり人に自慢できるという時代であった。ハーレムは怖いから行ったことが無い、などという黒人ミュージシャン達もいっぱいいた時代だった。勿論白人などもってのほか。私?ギグのためなら怖いもの知らず。

ところがその日になって彼から電話があり、急用が出来たため、送って行けなくなってしまったと言う。そのようなわけで、とりあえず僕がタクシーをつかまえて、1人で行かなくてはならないハメになってしまった。でも彼は用事が済んだらすぐ行きます、だから帰りは大丈夫ですから、という事。

昼間でもハーレムに行くのをタクシーの運転手は嫌がるので、夜のハーレムなどもってのほか。そんなわけでまだ明るいうちにと、演奏の3時間前に行くことにした。  まずはタクシーをつかまえ、何も言わずトランクにアンプを、そして後ろのシートにベースを乗っけてしまう。(このころは後ろに2つ補助席が付いている、後ろだけで5人乗れるチェッカー・キャブという大きなタクシーが走っていた。これだと後ろの席にベースを楽々と横に乗せ、僕もゆったりと座れた。)そして当たり前のように住所を告げる。  運転手しばらく考えているようだ。そしておもむろに後ろを振り向き、

「それってハーレムだろ?!何しに行くんだよ、あんたみたいのが?」

「見れば分かるでしょ、演奏。」と僕。

「あんた、そこらへんどういう所か知ってんの?...」

しばらくはこのような会話が続いたが、もう楽器も積み込んであるし、運転手も仕方ない、とあきらめたのか車を走らせ始めた。 店の前について料金を払うやいなやタクシーは逃げるように去って行った。勿論この辺りで客など拾うつもりは無い。

ベースとアンプを持って店に入る。入った所はバー・ラウンジ。バーテンダー、バー・メイド、客達がいっせいに僕を珍しそうな目で見つめる。その奥の別室がライブの部屋だったのだが、そんな事は知らないので、まずバーテンダーに「どこで演奏するの?」と訊いたら、「あ~?...おまえ何か場所間違ってねぇか?」という返事。

「いやこの場所でまちがってないよ。僕はビートリスというドラマーと一緒に演奏するんだから。」と僕。

「何を?」

「何をって、ジャズさ。ここジャズ・クラブだろ?」

「おまえがジャズを演奏だって?いったいどこのジャズだ?チャイニーズ・ジャズか?」と言って、そのバーテンは同意を求めるようにまわりの客達を見わたす。

「いやアメリカのジャズだよ。チャイニーズ・ジャズなんてあるのかどうか知らないけど...それに僕はチャイニーズではなくジャパニーズなんだけどね。」と言うと、 「What’s difference?(どこが違うんだよ?)」ときた。

とにかく、バーテンが別室を顎で示すので、そこに楽器を置いてセットアップ。演奏開始までまだ2時間以上はある。1人でこの居心地の悪い所に2時間以上もいることは嫌だったので、ハーレム見物でもと外にでた。ハーレムに来たのはべつに初めてでもないので、土地感はある。

この頃のハーレムにはほとんど黒人しかいない。しかしさすがコーリャンやチャイニーズ、たくましい彼らはここハーレムでもグロッサリーやレストランを営んでいる。そんなわけで若干東洋人がいるので少しは安心だ。道を歩いていてもそれほど珍しがられない。

腹ごしらえをしておかないと、と思いフライド・チキンの店に入った。ハーレムのフライド・チキンは定評がある。ケンッターッキー・フライド・チキンの店でも味が少し違うくらいだ。しかし僕の友人の日本人がここハーレムのケンタッキーで買おうとしたら、ずっと無視されたという話しをきいていたので、他のフライドチキン屋に入った。

スパイス、香ばしさが他の所と少し違うチキンを別に無視される事も無く買って、その店で堂々と食べた。

レレノックス・ラウンジに戻ってくると、他のミュージシャン達も来ていて、バーテンと何やら話していたが、僕の顔を見ると、「やぁー、ヒデ!」と声をかけてきた。

これを見ていたバーテン、少しは安心したようで、「こいつ、ジャズできんの?」などと他のミュージシャン達と話したりしている。

ファースト・セットがスタート。客は最初のうち僕の方を物珍しそうに見ていたが、とりあえずジャズを演奏しているので納得したもよう。とにかく撃たれる事は無さそうだ、と胸をなでおろした。

ここハーレムの客は反応が即だ。サックスがパーカーのフレーズをやると、「イェー、パーカー!シャバデュビダバダデュバ...」と一緒になって歌い出す。コルトレーン・フレーズが出てくるとまた一緒に歌い始める。

そして僕のベース・ソロがまわってきた。客達、最初は物珍しそうに聴いていた。僕はけっこう緊張していて、とにかくただ‘間’を持たせようと、パラパラと指を早く動かすだけのソロをやっていると、「ヘイ、カモン!なかなか良いけどよー、もっと話せないかぁ~?Talk to me man、talk, talk to me!come on !」というようなヤジが飛んできだした。

それではと、もっとブルージーな音を心を込めて弾き出すと「イェー、メン、それだよ、それ!お前ブルースわかってるじゃないの...ほらもっと語れ...」

こんなに自分が音を出すたびに反応がすぐ返ってくるなど今まで経験した事が無かった。

自分と客との真剣勝負だ。でもここで聴いている人達にとって音楽とはこんなにも彼らの生活、感性と密着しているんだと解かると、返って彼らの反応にこちらが乗せられ始めてしまった。

結局客にノリノリに乗せられファースト・セットが終わると客達が僕のところにやって来て質問の嵐、「あんた、いったいどこでジャズを覚えたんだね?」etc...

そして先ほどのバーテンもやって来て「おめぇ、ジャズできんのかよぉー、そんならそうと早く言えば...あー、言ってたっけ?しかし、こりゃーぁほんとにぶったまげたぜ!」と言ってビールを僕の手に握らせ、「オー、メン、いくらでも飲みな、俺のおごりだ!」

そんな具合で三回目のセットもほぼ半ばを過ぎた頃、ところで僕の知り合いがまだ来ていない。彼が来ないと僕はどうやってここから帰ったらいいのか、と不安になり始めてきた。この界隈は昼間でもタクシーなど通っていない。ましてギグが終わる夜中の2時過ぎにタクシーをつかまえるなんて不可能。こんな遅く一人でここからベースとアンプを持ち地下鉄で帰るのはやはり...他のミュージシャン達はハーレムの住人だし...

しかししばらくして横を見ると彼が来ていたので一安心。席に座りクラブの中を物珍しそうに見回しながら時折こちら、ステージの方を見ている。勿論東洋人の客など彼一人しかいない。

彼の言うところによると、何時間も前に来れるはずだったのだが、ここの番地が少し解かりずらかったので、学校の同僚に電話で訊いたところ、「その住所ではハーレムになってしまう。そんな所で、しかもそんな夜遅くまで日本人が演奏しているはずが無い。」と言われたそうで、彼も自信が無くなってしまったと言う。そしてその同僚はどういう訳か、それはブルックリンのどこそこではないか?と言っているのでブルックリンあたりを探していた、とのことであった。しかし絶対僕がハーレムだ、と言っていたことを思い出し、もう一度意を決してここまで来て探し当ててくれたのだった。彼の不屈の精神と度胸に感謝だ。

とにかくギグはお客さんに僕がめちゃくちゃ乗せてもらった感じで終了した。

そしてこれ以降ハーレムでちょくちょく演奏の機会を持つようになった。とにかくハーレムの場合は音楽的にいくら難しい事をやっても、一つ一つの音に本当にソウルが入っていないと客は容赦しない。特にミュージック・チャージまで払っている場合は、その分元を取らしてくれないような演奏にはすぐヤジが飛んでくる。

ミュージック・チャージ無しのバーなどの場合は、つまらない演奏だとすぐ客はいなくなってしまう。日本のように礼儀正しくはないので、演奏中に捨て台詞を残しながら平気で出て行ってしまう客もいる。

ギグが終わった後も次々と話しかけてくるお客さん達と話しながら、楽器をかた付け、迎えに来てくれた友人に手伝ってもらいながら車に楽器を詰め込んだ。

先ほどのバーテン、「しかしジャパニーズがジャズとは世の中変わったもんだな。信じられねぇぜ、まったく。俺達もよぉ、ここハーレムに閉じこもってぼけーっとしてないで、もっとオープンにならなけりゃ世の中から置いてかれちまうなぁ。。。」などと客と話している。

その彼の「オイ、また来いよ!」という声を後ろに店を出た。

最終的になんて気持ち良くさせてくれたギグなんだろう。その日は帰っても興奮で朝まで眠れなかった。

というのが僕のハーレム初体験だが、80年代はどこでもハーレム内で初めての店に入っていった時の態度は似たりよったりだった。よってこの年代にハーレムで演奏した事のある日本人ミュージシャンは、だいたいが同じような経験をしていると思う。

この頃のレノックス・ラウンジは確かピアノがまだ 無かったのだと思う。アルトのトリオでの演奏だった。ドラムはビートリスという女性だったがアルトの彼の名前は忘れてしまった。ゴメン!

僕のジャズ・ブラザー、ドラマーの田井中福司の話を書いておこう。

彼は86年にすでにオルガニストのロニー・スミスに気に入られハーレムのSt.ニコラスにあったジャズ・クラブ‘サットンズ’というところで木、金、土と週3日のレギュラー・ギグをもらっていた。ギターはジミー・ポンダー、グレゴリー・スカーフなどそうそうたる面々、ある時はジョージ・ベンソンが遊びに来て弾いていくこともあったという。

そこの休憩時間にルー・ドナルドソンがやって来て、

「ヘイ、ロニー、今日は誰がドラムなんだ?」

「フクだ。日本人のドラマー、知っているか?」とロニー。

「日本人のドラマー?知らないね。だいたい日本人にスウィングできるわけないだろ。」とルー。

フクちゃんの目の前にもかかわらずルー・ドナルドソンは大きな声でこんなことを言っていたという。

「いや、ルー、フクはスウィングするんだって、まぁ聴いていけって。」とロニー。

そして演奏が終わるやいなや、急にルーがフクちゃんのところによって来て、何の前置きもなく突然「お前スウィングするじゃないの!ヨーロッパ・ツアーにいけるか?」と言われたという。彼は半信半疑のまま、2週間後のドイツから始まるツアーに行ったわけであった。リハなどまったく無しのぶっつけ本番。大きなコンサート・ホールでいきなりバカっ早いチーク・トゥー・チークが始まり、そのままいきなりドラムソロを回されたという。そして、それから数十年にもわたるレギュラー・メンバーになったのである。フクちゃんのウェブへ

そう、この頃は場所によって日本人のジャズ・ミュージシャンは、まず演奏する前からバカにしたような嫌な感じの扱いを受けた。それを自分の音で説得しない限りギャラすらもらえるかどうかわからない時代であった。特に黒人には態度が露骨な人が多い。しかし気に入った途端に態度が180度変わるのも黒人ならではである。

ハーレムでのギグも何回かやって慣れてきたが、毎回友達に送り向かいを頼んだりは出来ない。

結局は地下鉄を使うということになる。しかしレノックス・ラウンジは駅のそばだからいいが、なかには駅からかなり遠い所もあった。

夜中の2時過ぎ、しかもほとんど人の歩いていないヤバそうな道をベースとアンプを持って地下鉄駅の方へ歩いていると、「それ楽器だろ?このあたりで演奏したのかい?」と後ろの方10メートルあたりから声がした。

振り向いてみるとけっこう大きな黒人が立っている。あたりは暗いのでその黒人の顔はよく見えない。

しかし彼の言葉使い、そのトーン、そしてこちらを驚かさないようにか、わざわざ10メートルくらい離れた所から声をかけ、それ以上近づいて来ないようすから、そんなにヤバそうな奴ではないと思った。

僕が「そうだよ。」と言うと、

「少し話したいから。そっちに行っていいか?」と言ってこちらにゆっくりと近づいて来た。

そして「ここら辺はあまり治安の良い所じゃないから駅まで一緒についてくよ。」と彼。

我々は世間話などしながら歩いて行った。どうせ最後に金でもせびられるのだろうが、その時は2、3ドルくらい渡せばいいかな、そんなにヤバそうな奴ではなさそうだし。。。地下鉄の駅まで来たら今度はその彼、僕のアンプを持って階段を降りてくれた。

お礼を言ってチップを渡そうとしたら、

「いや、俺はそういうんじゃないの。お前みたいな日本人がこのハーレムにまで来て音楽をやってくれた、っていうのが嬉しいんだよ。また演奏しに来てくれるだろ?ここら辺の奴らには俺がお前の事をよく言っとくからな。」と言い残し階段を駆け上って行った。

あっけにとられた瞬間が過ぎると心の中がジーンとしだした。