Memoir : September 11th. 5周年よせて
今年も9月11日がやってきた。毎年恒例となった遺族、友人達がグランド・ゼロに集まり亡くなっていった人達の名前を全員、何時間もかけて全て読み上げるセレモニーが行われた。あれから5年、ニューヨークは2年ほど前から元の活気を取り戻しはじめ2006年現在は2001年のテロ以前よりもかなり上回る景気になっている。ジャズ・クラブなども比べ物にならないほどの賑わいだ。

テロリスト、自分達のやっていることが、自分達の同胞、家族、子供達の命、生活を結局は自分達が殺した敵の何百倍、いや何千倍も犠牲にしてしまう事になるという現実が分からない、もしくは分かっていたとしても自分達の事しか考えられない悲しい人間達。唯一の希望はといえば自分は自爆テロで死んだら天国に行けるという教え。彼らの貧困さ、劣等感、そこから生まれるどうにもやり場の無い怒り、絶望、フラストレーション、それらが原理主義と結びつき、テロを引き起こし続けている。彼らはどんな事があっても自分の負けを認めることの出来ない人達だ。生まれた時から負けている環境で育っているわけなので真に勝つとはどういうことか理解できない。

日本は第二次世界大戦であれだけ徹底的に叩き潰されたにもかかわらず、世界中から奇跡と言われる復活をとげた。また中東でもお金持ちで平和な国もある。しかしアフガニスタンやイラクがそのような平和な経済大国になる日はあるのだろうか?

これらの国のリーダー達と日本との違い、それは自分達が負けた時、それをちゃんと認める事ができた、ということではないだろうか。広島、長崎に原爆を落とされ、東京をはじめほとんどの大都市は焼け野原、あれだけ酷い負け方をしたにもかかわらず、戦後にテロがやまなかった、などという事は無かった。またどうしても自分達の負けを認めることのできなかった人々、また認めてもそれを偲ぶことが出来なかった人は自害したのみである。決して自分以外の人達を巻き込もうとはしなかった。 戦後ちゃんといさぎよく自分達の負けを認め、絶望の中でもそれに押し潰され、憎しみにかられることのなかった日本人達のおかげで、日本は世界に誇れる国になった。またこれからもあり続けていくことだろうと思っている。

車、弱電関係、スポーツ、芸術、科学、また世界的なボランティア活動と、ありとあらゆる分野において世界的レベルの人間を輩出し続けている国、日本。

下記の文書は2001年9月11日のテロの後、多くの人達から寄せられたEメール、電話などに答えて書いたものです。今読み返すとその時の状況が新たによみがえってきます。今回5周年に寄せてここに載せる事にしました。

2006年9月11日、平和な夜に記す。

最初の2つの文は2001年9月11日、その日に送ったEメールです。

No1

朝10時頃、奥さんが大きな音でテレビを見ていたので、その音で起こされ居間に行くと、画面に黒い煙をあげて燃えているWTCが写し出されています。最初はセスナでもぶつかったのかな?くらいに思っていました。

毎日その時間はジョギングをしているので、とりあえず一緒にでかけました。いつもどおりハドソン・リバー・パークをダウンタウンに向かって走っていくと、全ての交通が止まってしまっているのか、フェリーでニュージャージーに渡る為、多くのビジネスマン達がフェリー乗り場の方に歩いて行きます。みんな呆然とした顔をして歩いて来ます。なかには携帯を握り締め「オー マイ ゴッド」を繰り返している人や携帯に叫びかけ取り乱している人もいました。もしかしたらビルの中にいる人と最後の交信をしていたのかもしれません。

WTC辺りは煙に包まれそこからではほとんど見えません。しかし14丁目辺りまで行った頃風向きが変わったのか、火を噴いているツウィン・タワーが見え出しました。この時これはただの小さいセスナやヘリコプターなどがぶつかったものではないと気づきました。またテロという言葉が耳に入ってきました。

僕が初めてアメリカに来て、タクシーがブルックリン・ブリッジを渡り始めた時、まず目に飛び込んできたのがこのビルです。高くて大きいのでほとんどどこにいても見えるビル、以来ほぼ20年間毎日のように目にしてきたビルが、今目の前で殺されていくところでした。長年の友人が生きたまま火あぶりになっているのを見ているような気持ちになり、何も考えられずただ呆然と立ち尽くしていると急に辺りの人々、そしていたる所で大きく鳴らされているラジオからアナウンサーの絶叫があがりました。

とほぼ同時に煙に包まれているビルの中ほどに雷のような稲妻が走り、一段と大きな煙と火を噴いた瞬間、信じられない事が起こり始めました。あの巨大なビルが崩れ始めたのです。まさかそんな事が起こるなどとは思ってもいなかったのでその場に凍り付いていると、いつの間にか胸が熱くなり涙が溢れてきました。あのビルにいた人々、飛行機に乗っていた人々の恐怖、そしてこのテロを起こした人間達のアメリカに対する巨大な憎しみ、悪意などを感じ、胸が詰まったようになりました。

この崩壊にはさすがに今まで表情が凍りついたようになっていたビジネスマン、ビジネスウーマン達の顔も歪み、しゃがみこんで泣き出す人々もいます。整備にあたっていた警官達からも悲鳴のような叫び声があがりました。それでもその一瞬が過ぎると彼らは自分の表情を殺し、必死に人々を誘導しはじめ、人々はみんな静かにそれにしたがっていました。

全ての地下鉄、交通が麻痺しているため人で溢れかえっている町を、ワシントン・スクウェアーに向かって歩いていく途中、もう一つのビルも崩れた!と人々が言っているのが耳に飛び込んで来ました。ワシントン・スクウェアーについて、そこからWTCの方を見ても煙に包まれたまま何も見えません。

そのまま皮肉なほどに美しい秋晴れのなか、見た目は町中全てが、歩行者天国のようになっている通りを歩いて行くと人々がある教会の中に入っていきます。我々も祈りでも捧げようと入りましたが、興奮していてお祈りどころではありませんでした。

また近くにあったSt. ヴィンセント病院に何か手伝う事でもないか、と行ってみました。とりあえず血はたくさん必要ではないのか、と思いました。しかし道路まで出てきている医者や、看護婦達が移動式の担架の前で手持ち無沙汰そうに待っているのですが、いっこうに救急車が来る気配はありません。よって血が不足しているという感じでもありません。

あるグロサリーで水を買おうと中に入ると、ある人が、「飛行機は全部で八機乗っ取られ、そのうち何機かは今こちらに向かっているらしい。次はエンパイアー・ステイト・ビルをねらっているそうだ。」「今ペンタゴンもやられたそうだ。」などと話しています。

またこの歴史的瞬間に居合わせてしまった観光客達。呆然とした表情のまま、それでもニューヨークのみやげ物、‘I Love New York’などと書いたTシャツを何枚も買っていたのが印象的でした。

道では多くの人が携帯をかけ、そこに向って泣いている人もいます。しかし街全体としてはとても静かで落ち着いていて、人々は今だ何が起こったのか把握しかねているような感じでした。

No2

大勢の方々に心配のメールや電話をもらいありがたく思っています。

おそらく日本のテレビではあのエリアのみをずっと映しつづけているので、それをマンハッタン全域だと思っているのでしょうか、多くの人達から問い合わせがありました。しかしこれは自然災害ではないので、あの一部のエリア以外は別にすると、ビルが崩れたり、火災というようなテロの直接被害は全く被っていません。またあそこはビジネス・エリアなので、あの時間にあそこに行っていた知り合いはいないはずで、少なくとも僕の友人関係においては今のところ被害者はいないようです。

街は休日のように静かで、全てが名物市長、ジュリアーニ市長統制のもと、救出活動が秩序正しく行われていて、失われた人々への大きな悲しみ、苦しみ、喪失感は計り知れないものの、今のところ暴動などの混乱は起こっていません。しかし多くの傷つき精神的にまいってしまっている人々の社会復帰、ビジネスなどの混乱はこれからしばらく続くでしょう。

このまま起こらないと信じていますが、これに乗じて日ごろの鬱憤を晴らすため、異常に緊張感を煽り人種差別的暴動など起こそうとする人達が出てくるのでは、との懸念もあります。 ニューヨークには数多くのアラブ系の人々がいます。(タクシーの運転手、グロッサリーの従業員など。)「ニューヨークに住んでいる彼らに対しての人種差別的行為は厳しく取りしまる!」というジュリアーニ市長からのメッセージも出ていて、少なくともマンハッタンではアラブ系のグロッサリーもみな平常どおりオープンしています。

ちなみに僕の知り合いでもアラブ系(イスラム教徒)がいますが、彼らは勿論ピースフルな人達で、ファンダメンタリスト達と一緒にされる事に恐怖をおぼえています。この事件を起こしたのはあくまでもイスラム教徒のなかでも最も過激な一派です。キリスト教のなかにもファンダメンタリスティックなやばいセクトもあります。またオーム真理教なども一応仏教徒です。とにかく悪魔は宗教も利用できるのです。

僕がよくやるギターリストはパレスチナ人(カナダ生まれですが)、別にユダヤ人と一緒には演奏しない、何てことも無くいつも色んな人種と仲良く演奏しています。

事件が起こってから13 時間ほどでジュリアーニ市長から、もうボランティアは足りている、混乱が起こるだけなので、もう来なくてよろしい、というメッセージがありました。とにかく何か助けになる事は出来ないかと近くの病院へ献血に行ってもそこではやっていない。セント・ルカ病院でやっているという情報が入ったので行ってみると、そこではまだ午後一時前なのにもう今日は終わっている、ということで、どうしてもしたいならかなり遠くの病院まで行かなければなりません。

しかも何時間も待たされるらしいので、結局そこの病院で‘必要になったら呼び出す’というリストにこちらの電話番号を書いて帰ってきました。本当に必要なら全ての病院で、それどころか道ででもやるはずだと思うのですが。(注 このテロでは輸血の必要な怪我人はたいしていなかったのでした。みんなビルと共に消えてしまった人がほとんどで、結局血が足りない、という事はありませんでした。)

普段は秩序の無い街ですが返って今は救出に向け、全てがいつもより秩序正しく運んでいます。何かが起こるといっぺんにまとまるのがニューヨークの特徴なので、これからの事はあまり心配していませんが、ただ「爆弾がどこそこに仕掛けられているらしい。」などという色々なデマが飛び交って人々を不安にしています。

ブロード・ウェイ・ショー、レストラン、クラブなどのギグはキャンセルになった所が多いようですが、僕のホテルでやっているレギュラー・ギグはいつもどおり演奏してくれ、というので演奏してきました。ホテルは逆に多くの店が閉まっているので、どこにも行けない観光客でごったがえしていて、返っていつもより音楽を求められている感じでした。

そのような訳で日本の皆様には大変心配をかけているようなのですが、僕としてはいつものようにベースを弾く以外何もやる事も無く、気が抜けるほどいつもと同じ生活をしていて申し訳なく思うほどでした。そんな訳で今の僕にできる事といえば、そういう自分の状況を感謝し、このテロに巻き込まれた人々の冥福を祈るしかありません。

しかしこれからまた戦争になり、多くの人々の生命が奪われる事になるのでしょう。その事の方がこれから考えなければならない問題なのではないでしょうか。

先ほども書きましたが、ここにはユダヤ人、パレスチナ人、イスラム教徒達がそれこそ隣どうしで、住んでいたりします。これから彼らが、お互いにどういう態度を取り合っていくのかが少し心配です。しかし前回の湾岸戦争中は別に大した事件も無かったので大丈夫だとは思っています。

下は2001年9月25日に出したもの。

ユニオン・スクウェアにて
LOVE, NO WAR, PEACEと書かれている。
このメールはアメリカに住んでいる友人と、日本に住んでいる友人両方に送るために書いています。

昨日、やはりこの目で見ておかないと!と思い、奥さんと二人でユニオン・スクウェアーを通りグランド・ゼロ付近まで行って見てきました。

まずユニオン・スクウェアー、今回のニューヨーク反戦運動発祥の地です。あの9月11日の夜、すでに無抵抗、平和を唱える人々が集まり始めた場所です。22日にはここから一万人の反戦デモ行進が行われました。

今日は別に集会はやっていなかったのですが、それでもかなりの人々が集まっていました。死んでいった人々の写真、花束、千羽鶴、ろうそく、縫いぐるみ、ツイン・ビルの模型、他ありとあらゆる故人の思い出が染み付いている物、世界中の人達からの哀悼の手紙、世界平和を祈る手紙、メッセージなどがところせましと置かれていました。

そしていたるところに張り出されているメッセージは「報復反対!」「我々は神の平和を表す道具である」などなど全て平和を呼びかけたものでした。これらはまぁよくある反戦のスローガン、それだけでは別にそんなに珍しいものではないでしょう。しかしここに来た多くの人々は肉親が殺されても、なおかつ平和を祈り、報復はやめよう!と言えるとてつもない人達なのです。

僕自身としては、アメリカの世界に対する立場として、この攻撃に対して何もしないというのがそう簡単に世界平和につながるとは思っていませんが、それでも彼らの気持ちには打ちのめされるような気になりました。こんな人達がいるんだ...絶句しました。体の中の何かが爆発したような気になり、熱いものがこみ上げてきました。彼らの平和への祈りは、まさしく自分の身を切り、血を流してまでする平和への祈りなのだ、と受け止めました。

ユダヤ教のラビのような人が占星術のような事を説明していました。「今世界は新しい時代に入るのじゃ。世界はこれを契機に良くなっていく。今はその生みの苦しみの時なのだ。大丈夫!全て神様にお任せするのじゃ...」などと演説しています。何が大丈夫なのか分かりませんでしたが、妙に説得力をもっていました。

平和へのメッセージを書く紙が置いてあったので奥さんが書いて、WTCを形どった入れ物に入れました。
尋ね人、平和へのメッセージ


ニューヨークに住んでいる人は是非見に行ってほしいと思います。もし不幸にも戦争が始まったら、この戦争に賛成の人でも行って見てほしいです。でも実際戦争が始まったら全て撤去されてしまうでしょうから、なるたけ早めに。

そこからいつもと変わらないチャイナタウンを抜け(アメリカ国旗のバンダナをしたチャイニーズの若者がいましたが。)グランド・ゼロ付近。見事に崩壊したツウィン・タワーのそばに、かろうじてまだ建っている真っ黒に焼け焦げたビル、元ツウィン・タワーの瓦礫の山を、多くの見物人や整理中の警官の隙間から二百メートル以上先に見ただけで、身の毛がよだちました。

数日前にTVで小泉首相がグランド・ゼロを訪問されているのを見ましが、小泉さんの顔からは全ての表情が消え、ただその場をじっと動かず見据えていました。

こういうふうになっているのは何回もTVで見て知っているにもかかわらず、声を失いました。胸が潰されるような気持ちでした。怒りなど感じている余裕すらありません。こういう現場に人々を救おうと自分の命をかえりみず飛び込んでいける消防士や警官達の常軌を超えた勇気、また一緒に現場まで行って、最後のブレッシングを消防士達にしていて自らも命を落としたミケール・ジャッジ神父...

やはり行ける人は行って見て、感じてきて欲しいと思います。

それからスタッテン・アイランド・フェリーに乗りWTCの消えた、見慣れないマンハッタンを遠くから見てきました。我々と同じ事をしている人も何人か見かけました。普段は大きな声でやかましく行儀が悪そうな黒人の悪がき達や、刺青をしたプロレスラーのようなスパニッシュの兄ちゃん達も、考え深く静かにWTCの消えたマンハッタンに見入っていたのが印象的でした。
ストリート・プリーチャー
最後は10月15日に日本の親、友人に送ったメールです。

こちらは全てのビジネスが今後の戦争の先行きがもう少しはっきりするまで、しばらくようすを見ようという感じです。今後の仕事のことより、復興の方を優先しています。勿論音楽の仕事はかなり減っています。ジャズ・ミュージシャン達の生活に対してはジャズ・ファウンデーションという組織が金銭的にジャズ・ミュージシャン達を助けてくれています。

しかしビジネスが駄目になってくると得するのは貧乏人。全ての物価が安くなっています。僕はCDなどが普段より4ドルほども安くなっているので、ここぞと買いあさっています。本はまだ安くなっていませんがそのうち安くなるでしょう。

またジュリアーニ市長が「ニューヨークの文化、ブロード・ウェイ・ショーをはじめ、音楽、芝居を我々ニューヨーカー達で守ろう!」と言う事を何回も言っています。観光客がいなくなってしまったため、もっとここに住んでいる人達が見に行って盛り立てよう、ということで色々なミュージカル、コンサート、バレイ、ダンス、芝居などのただ券、半額券が出まわり、また地元ニューヨークのジャズ・ミュージシャン達は値段が高いので普段あまり行けない、高級ジャズ・クラブなど、ドリンクだけでミュージック・チャージはただになったりしています。

そんな訳でここのところ僕はブルーノートに何回も行っています。そこでたくさんのジャズ・ミュージシャンの友人に会いました。みんな「こんな事でもない限り、ここには客では入れないもんなぁ。ラッキー!」と言って大満足。

また普段ならば何ヶ月も待たなければ見られないような人気ミュージカルもただ券、半額券が出回っています。そういう事なので最近ニューヨーク、どこへ行っても、ニューヨーカー達だけで異様な盛り上がり方をしています。

そのような訳で僕にとって今はある意味で最高の環境なので、この後もまたここでテロが続発でもしない限り、日本に避難する気はありません。逆にもっと落ち着いてから日本に行きたいと思っています。
以上が2001年9月11日以降、僕が出したメールでした。

この後ニューヨークの悲しみ、そして黙々とした復興への努力を、マスコミは戦争への高揚感を演出する道具のように使っていきました。ニューヨークの街中にはまず戦争の気配すらないのに、テレビ、ニュースでは全て戦争準備のような内容ばかりで、現実のニューヨーク生活とのすごいギャップ、アメリカ政府による完璧なマスコミ操作を感じました。

またメールの中では僕の直接の知り合いに被害者は無い、と書いてありますが、その後わかった事。僕の知り合いのマレーシアから来ているまだ若いダンサー、シンガー、彼女はWTC 横のマリオットホテルに勤めていました。そこも大きく崩れ彼女は瓦礫の下にうずまってしまっていたそうです。

誰かが大きな声で叫んだので、本能的に瓦礫の下から手を伸ばすと、ある消防士がその手を引っ張りあげてくれ奇跡的に助かったそうです。彼女と一緒に勤めていた従業員のうち生き残ったのは彼女だけだそうです。

後に彼女は歌、踊りなど続ける気にならず、アーミーに入隊してしまいました。アーミーといっても彼女はとても可愛く、スタイルもいいのでアーミー宣伝用のカバー・ガールのようなことをやっていました。現在はどうしているのか、と思っています。