Memoir : 中央アジア旅行記 00~01

No.1タイ(バンコック)  ネパール(カトマンドゥ、ナガルコット)編
98年にイミグレーションともめていた奥さんのグリーン・カードが6年弱ほどかかって、すったもんだのあげくやっと取れ、その1年後にミュージシャン憧れのアパート、マンハッタン・プラザに入居、生活も以前とは考えられないほど楽になり全てが順調に行っていた。

しかしその生活が落ち着き始めた頃、とりあえず全て達成してしまったようだ、そしてこれからこのような毎日がただずっと続いていくのか?それはそれで素晴らしいことなのだが...しかし何かパワーが落ち始めているのを感じ始めていた。音楽にもあまり熱が入らない。インスピレーションが全くわかないので、演奏中に酒などをまた飲み出した。しかしそれだけでは続いていかない。酒、ドラックをやっての演奏はもうだいぶ前に卒業している。

また素晴らしいはずであるミュージシャン達の演奏を聴きに行っても、僕の心に入ってこない。気分を変えて映画でも...これもぜんぜん身が入らない。

要するにウツ状態になっていたのだった。そんな頃、僕が存在すら知らなかった親戚の1人が、身よりも無いまま小金を残したまま死んだ、と日本の従兄弟より連絡があった。皆で分け合って相続するという事だった。

その頃僕の奥さんはいつかインドを旅行したい、とよく言っていた。そして僕のウツ状態、また突然入ってきたお金。これは何かを示唆していないか?何か今は音楽以外の事をやれ!と言われているような確信をもった。

僕の奥さんは若い頃からアメリカを1人で旅をしていたので旅のノウハウは僕の及ぶところではない。 「行っちゃおうか!?」と話しはすぐ決まった。そして次にはいつそのような旅行ができるかわからない、じゃあどうせ行くならその近辺の国々も見てこよう!と、どんどん話は盛り上がっていった。

そして我々が最終的にたてたプラン、それはなんと中央アジア五ヶ国、2ヶ月半をかけてじっくり周る、というものであった。

まずは日本経由にてアジアの中継地点、タイはバンッコックへ

12/05/00
待ちに待った日来る。タイランドとバリはある程度想像がつくが、あとは全くつかない国々である。44才の人間をガタガタと揺さ振り、変える事が出来る所が世界にはたして、あるだろうか。ネパール、インド、ビルマ、神秘の国々である。自分の体で確かめ、体験しないことには何もわからぬ。ガイドブックなどは帰ってから読めばよい、とすべて奥さんにまかせ、僕はただそれらの国々に、何の先入観も持たずに行くことにした。ただしそれぞれの国で、そこの音楽を生で聴くというのが僕の奥さんに対するミニマムリクエスト。で、どこに行くのかというのは全て奥さんにおまかせ。

6:30AM ごろに起き、まだたっぷり時間があるので、ゆうゆうとAトレインでJFKへ。ここ(ニューヨーク)に無事戻って来られるのだろうか?と思うが、ジャズ・ベーシスト、ヒマラヤに死す、というのも、まぁかっこいいじゃないかなどと思う。しかし後でしみじみ、そんなこと思わなければ良かったというハメになるのだが...
 
12/06/00
カオサンの町並み
予定より早く3時前に成田へ着いた。ニューヨークより少し湿り気のある日本の空気を感じる。そしてこれが多かれ少なかれ、いわゆるアジアの空気なのである、と後で実感することになる。そう日本もアジアなのだ。当たり前か!?

今回はそのままタイに行くので入国する必要は無いのだが、親戚と実家に送らなければならない荷物があったので入国する。5、6人のアメリカ人グループのそばで送る荷物を選びながら何となく話しを聞いていると、そのうちの一人が、早く日本のポルノを見たい、みたい、と調子に乗って話している。友達達が「シィーッ!」と指を口にあてるが、誰も英語わかんないもんね。だいじょうぶ、だいじょうぶ、とはしゃいでいた。よっぽど「I can recommend good one. What is your taste?」(いいの紹介するよ。どんなのが好みか?)と言ってやろうかと思ったが、以前日本に帰って来た時、同じようなことを言って、まるで伝染病患者でも見るような目つきで見られた経験があるのでやめておいた。

10:30PM、バンコック着。12月なのにそこは日本の真夏。そしてすごい湿気。しかしそれ以外、空港とその周辺は東京などの日本の大きな都市とあまり変わらない。エアポートバスに乗り今日の宿泊地カオサンへと向かう。

走り出すとタイのポップミュージック(日本のとあまりかわらない)が鳴り始め、曲によって運転手がボリューウムをあげ、一緒に口ずさんでいる。(これは日本のバス運転手はやらないわな。)彼の好きな曲らしい。バスは日本企業の大きなカンバンが目立つ、東京の首都高のようなところを走る。ここはどこ?しかしここは王制の国なので、いたる所にタイ国王陛下の大きな写真が掲げられている。それでやっとここは日本ではないのだと思った。

カオサンにはちょうど真夜中ごろ着いた。僕のイメージにある典型的なアジアのごちゃっとした街である。人通りは多い。少しスラムっぽい汚い所だが、身の危険を感じるようなことはない。もうここに住み着いて長いです系のヨーロッパ人、アメリカ人多し。ここは世界中のツーリスト達の吹き溜りという感じで、アメリカ風の味気無いバーが込み合い、ロックがとても大きい音で流れ出している。シアム・オリエンタルというホテルにチェックイン。なんと1泊2$ほど。しかし狭い、クーラー無し、蒸し暑い。シャワーは水だけだが、暑いのでそれはそれでいい。天井にはファンがついている。

シャワーを浴びて、少し散歩でも、と外へ出てみる。野良犬が多く、もう夜中の1時をまわっているのにかなりの人々がたむろしている。縄遊びのようなことをやっているヒッピー系ヨーロッパ人、その他様々な遊びを、みんないやに深刻な顔をしてやっていた。 屋台でパドタイを一つ買い奥さんと二人で食べてみる。アジアに行ったら、屋台の食べ物には気をつけたほうがいいと言われているが、そんな事を言っていたら、本当にその国を味わえない。ホテルに帰り水も少し飲んでみる。なんせ後にはネパール、インドがひかえているのだ、ここで少し慣らしておかなければ。もう一回シャワーを浴び、いかにも虫がいっぱいですという湿ったベッドなので、虫よけを塗って寝ることにした。 
12/07/00
金色が真っ青な空にはえる
この奥にエメラルド・ブッダが安置されていた。
船着場
ブッダの涅槃像
七時前に起きる。朝はけっこう涼しかったので、水シャワーを浴びるのにかなり勇気がいった。下痢はしていない。8時頃王宮の方に向かって歩き出すと、町はちょうど出勤時間で混み合い、細かい路地の屋台もすでに色々な食べ物が並びにぎわっていた。

王宮がそろそろ見えてきそうなころ、その辺りに止まっていたオート三輪のドライバーが、どこへ行くのか?ときいてきたので、王宮であると答えると、今日は11 時半までお坊さん達が儀式をやっているので、それが終わるまで閉まっている。だからそれまで町を案内するから乗らないか?とのお誘い。でもまぁ少しぶらぶらもしてみたかったので、断り歩き出した。しばらく行くと、又別のドライバーがよってきて同じようなことを言う。乗ってもいいか、とも思ったが土産物屋にも連れて行くというので断る。奥さんがとにかく門の前まで行ってみよう、もしかすると開いているかも、本でこの手の話しを読んだのを思い出したと言う。行って見ると案の定、開いていた。閉まっている、というのは自分の車に乗せ商売する為の嘘。

王宮に入る前に、お腹が空いていたので、近くの大衆食堂へ入りヌードルスープを注文する。とても美味かったが少しボラれたもよう。

王宮の門から20メートルぐらいの所で、人々がたくさん出入りしているのがもろ見えるにもかかわらず、また別のドライバーが寄ってきて、今日は王宮閉まっているが、と話し始めようとするので、頭にきて僕と奥さん同時に門を指差し「イッツ・オープン!」と叫ぶ。彼そのまま黙る。

王宮とその御国寺ワットプラケオは黄金、エメラルド、そして様々な美しい色に輝き、生きているような面白い彫刻達が、まるでおとぎの国へ迷い込んだような不思議で楽しくて、幸せな気分にしてくれる。仏像達はほとんどが黄金に輝き、タイ独特の女性的な優しい顔をしている。又エメラルド仏陀という、多くの戦乱を経てきた歴史のある、いわくつきの像が好奇心をそそった。とても満足をして出て来ると、門の外10メートルぐらいの所で男が寄って来て「今日は王宮お休みね...」と話しかけてくる。無視。

王宮の南側にあるワット ポーに行く。王宮を見た後なので全体として地味に感じるが、これも又黄金に輝く仏陀の涅槃像が印象的であった。その後渡し舟で対岸のワットアルンへ。ここも王宮よりは地味だがとても味のある寺であった。帰り際に腸詰の焼いたのを買う。甘酸っぱく何とも微妙でツブツブしており、今まで食べた事の無い味。でもとても美味しい。タイはどこで何を食べてもまずおいしい。ヤキトリ、レバー、その他何にでも独特の味を染み込ませてある。おー 死ぬまで食べるぞー。お腹をこわすかもしれないという気持ちは食欲の前にみごとに消し飛んだ。

町の中心と思われる所まで舟で行き、歩き始める。地元の寺に入ってみると、中はほとんど赤と金色が主体で、イメージ的にはいわゆる中国のお寺という感じ。でも色以外は東京の下町の雰囲気がある。意気の良い人達がきびきびとした動作で、花と線香を入り口で買い、中に入りお参りしていく。また寺の外で籠に入れられた雀がたくさん売られていたので、どうするのだろうかと思いきいてみると、買った人が逃がしてあげるのだそうだ。何か宗教的な意味でもあるのだろう。   1時間半ほどぶらぶらと屋台でつまみ食いなどしながら歩く。町は少し昔の新宿のような感じ。古い車が多いせいか空気は良くない。少し疲れ、お腹も空いてきたのでデパートの最上階にあるフードコートで夕食。最初にクーポン券を買うしくみになっていて余ったら返金してくれる。言うまでもなく安くて美味い。

スカイトレインという、一般道路の上を通っている電車に乗る。新しくきれいだがバスに比べると料金はかなり高い。もう一回川の近くまで行き、舟で夜景を見ながら帰ろうと思ったが、8時が最終でもう終わっていた。それではトゥクトゥク(オート三輪)で帰ろうという事になり、数人のドライバー達と値段の交渉をするが、皆かなり高い値をふっかけてくるようなのだ。どうしようかと思っている所へ、キリスト教のシスター達が何人かで通りかかったので、相場はいくらぐらいかとたずねると、ドライバーと交渉をしてくれた。それでも高いと思ったが、せっかくシスター達に一生懸命やってもらったので、とりあえず乗って帰った。部屋に戻りさっそくガイドブックを開いてみると、何とこちらの方が一桁間違えていて、誰も決してボロウとはしていなかった事に気がつく。一度などはまだ子供の面影が残る若いドライバーをつかまえ、無理やり料金の四分の一ぐらいの値段で行け、と言っていた事になる。彼はほぼ泣きそうな顔になり、それはちょっとひどいよ、まず僕のボスに相談しなきゃ、知り合いの店に寄って何か買ってくれるか?そんなら行ってもいいけど。などと言ったので、きっぱりと断ったが、泣きそうな顔にもなる訳で、ガイドブックを見ながらなんとも申し訳のない気持ちになった。もっと優しい人間になろうと決心する。。。

 
12/08/00
ネパール最初の宿 センチュリーロッヂ
古い町カトマンドゥ 強力な懐かしさがこみ上げてきた。
朝6時に起き、近くから乗合バンで空港へ向かう。ラッシュアワー、皆凄い勢いで、荒っぽいサーカスのような運転をするが、不思議とほとんどクラクションを鳴らさない。ぎりぎりのところを凄いスピードで静かぁーに、すり抜けていく。神業であった。それにしても排気ガスがひどい。

空港で朝食をすませカトマンズ行きの飛行機に乗り込む。飛び立って2時間ほどすると神々しいヒマラヤ山脈が見えてきた。ヤッホーッ!!!

そしてお昼の12時過ぎにカトマンドゥに着く。空港ターミナルを出たとたん、いっせいに人が群がって来た。僕達ってそんなにネパールで有名?などと冗談言う暇無く、いっせいにカタコトの日本語で喋りだした。凄いパワーである。こんな事は始めての経験だったのでパニックになりそうになった頃、奥さんの知り合いで旅行代理店のギミレ氏登場。迎えに来てもらう約束をしていた訳ではないのでビックリ。しかし、そんな訳でスーパーマンに見える彼に救い出されるように駐車場へ向かう。しかし群れはめげずに我々の周りにまとわり付いて来て、荷物を持とうと手を伸ばしてきたり、僕達の顔5センチ手前まで顔を寄せて話しかけたりしてくる。残りはただ黙って後から付いて来る。

 どうすればいいんでしょう?とギミレ氏に質問。「あー、無視して下さい。」と軽く言われるが、どうやって?車の所までついて来て僕達のためにドアを開けようとまでする。とにかく乗り込みドアをむりやり閉めひと安心。が、まだ人々は外から話しかけて来る。ギミレ氏いっさい無視で、黄色い菊に似た、可愛くて美しいキンセンカで作った花輪を我々二人にかけてくれた。

車が走り出してもまだ追いかけてくるのがいる。いつもこんなんですか?ときくと、「ええ、まぁそう。」との事。ギミレ氏はとても日本語が達者である。まずは彼のオフィスへと向かう。とても砂っぽい町。いたるところに、崩れかけた家、ゴミの山。小さくて古い車がごちゃっといて荒っぽく、こちらはバンコックと違ってクラクションを鳴らしまくる。そして空気はなおいっそう悪い。僕の抱いていたカトマンドゥのイメージとは、遠くにヒマラヤの神々しい山々の見える、空気のおいしい高原の小さな美しい町であったのだが、遠くはスモッグで見えず、近くに埃っぽい瓦礫の山々の見える、空気の悪い高原の小さな汚い街であった。僕の心を見透かしたように、ギミレ氏「ネパールどうですか?キタないでしょう?」まさか、そうですね、とも言えないので「とても面白いです。」と答えておいた。まぁ、嘘ではない。

オフィスでヒマラヤトレッキングの事などをうちあわせ、奥さんがガイドブックを見て決めておいた今日の宿センチュリーロッヂまで彼の部下のヒマル氏に車で送ってもらい、チェックイン。三百年ほど前からあります、というような建物である。暗い、寒い、(暖房器具は全く無し)トイレ(日本式の便座をもっと簡単にしたようなやつで、使った後はバケツに水を汲んで自分で流す。トイレットペーパーは無く、悲しくなるほど暗い裸電球がドアを閉じると点く。)シャワー共同。いつ崩れ落ちても不思議ではないので注意しながら階段を上り3階の部屋まで。

荷物を置いて町に出てみる。歩き出すと一分間に3人ぐらいの割合で声をかけて来るが、いちいち相手にしていると疲れるので無視。

ここはネパールのカトマンドゥ、古い町である。やっと落ち着いて来た。宿の辺りはダルバールスクエアといって、寺の多い所である。完璧に手入れをされ黄金、又様々な色鮮やかに輝くバンコックの寺とは逆に、古くて素朴で、暖かく、懐かしい感じのする寺々であり、そのうえいつ崩れて来るか解らないのでスリル満点でもある。(現に色々な所が崩れかけている。)でもとにかくとても味があるのだ。バンコックはまだそんなに、日本とかけ離れてはいなかったが、ここはさすがに別世界だった。すべての建造物が古く、暗く、ガタガタである。がそんな中に突然、高級ブランドの店BALLYがあったり、ボロボロの家の中がコンピューターランドであったりする。三百年前から在ります、というようなショッピング・センターに入ってみると、小さい店がいっぱい入っていて品物はけっこう豊富であった。

ぶらぶら歩いていると、すごく親近感のあるおいしそうな、匂いがしてきたと思ったら、ポップコーンの屋台であった。さっそく買って食べてみるが味無し。塩の味すらしない。

12/09/00
二体の死体が火葬にされて煙を上げていた。
黄色い布に包まれた死体
写真ほぼ中央下
ホリーマンにブレッシングを受け記念撮影
マザー・テレサのシェルター
ミルク・ババ
聖者達?
歩いてボナタートへ
ボナタートの仏塔
スワヤンブナートの長い石段
     ガイドと共に
境内にはやはり猿が多い。
見晴らしの良いスワヤンブナートの境内
ダルバール広場での音楽。ミュージシャン達はテントの奥のほうで演奏している。
7時ごろ起き、庭にあるシャワー小屋へ行く。寒いので命懸けのシャワーである。中には服を掛けるところが無いので、奥さんに外で持っていてもらう。思ったより熱いシャワーが出て一安心。同じようにして、彼女も浴びる。ついでに洗濯もする。

今日は、自転車でも借り、寺巡りでもしようと思ったが宿の親父は、そんなもん道に置いといて見物などしてたらすぐ盗まれる、乗合いトゥクトゥクで行くなら安いよ、というのでそれで行くことにして、停車場の場所をきく。この親父ぶっきらぼうだが意外と親切に色々教えてくれる。彼の目はいつも輝いていて、少しシャイな微笑みをたたえている。これからインドなどでも時々見かけることになる、魅力的な目なのだ。

近くのジャーマンベーカリーという所で、ドーナッツ、クロワッサンと書いてあった物を買ってみた。両方とも見た目はまさしくそうなのだが、ドーナッツらしき物の方を食べてみるとあのジューイッシュのパン、ベーゲルを甘くしたような感じなので、かみ切るのにかなり時間がかかり、しかもぼさぼさ。クロワッサンの方も、形だけは確かにクロワッサンだが、やはりベーゲル塩味で、あまり食べる気にはならない。

乗合トゥクトゥクの停車場の方へ向かって歩き出すが、なかなか見つける事が出来ないので、まずその辺りのレストランに入り、僕はヌードルスープ。これは薄くてはっきりしない味。タイで食べたヌードル・スープとは比べ物にならない。奥さんの注文したモモ(ネパールのショウロンポウでカレーの様なタレにつけて食べる)、これはまあまあであった。

乗合トゥクトゥクの場所が見つからないので、個人のトゥクトゥクを雇うことにして交渉。それに乗り、まずはパシュパティナートというヒンドゥー教寺院へ。あと二つの寺院を周るという約束で、降りる。

その時運転手の知り合いと思われる青年がやって来て彼と話しはじめた。僕達が歩きだすと青年はついて来て、英語で「こんにちは、どこから来たの?ネパールは始めて?」などと話しかけてくる。しばらくはただの世間話で、とても感じは良くフレンドリー、だが用心用心、押し売りガイドには気をつけろとガイドブックに書いてある。

寺の敷地内に入ると(寺自体の中にはヒンドゥー教徒以外は入れない。)話題はごく自然に寺の事となり色々と説明が始まったので、「はっきりしておきたいのですが、あなたはガイドでしょ?チャージはいくら?」と訊くと、あんまり興味も無さそうに「僕は好きで勝手にやっているだけで、あなた達に喜んでもらえればハッピーなんです。もし気に入ってくれたら、いくらでもいいから下さい。まったくあなた達次第でけっこうです。」 我々はガイドをほしいとは思わなかったが、感じのいい青年で、そう言っている事でもあるし、頼む事にした。一人雇っておくと、もう誰もよってこなくなるので気が楽でもある。

この寺院は聖なるガンジス川の支流バグマティ川の川岸に建ちホスピスと火葬場がある。川までは階段になっており、そこに死体を焼く台が橋を挟んで八個ある。その少し上の建物がホスピスだそうである。ということはそこに入っている人々は、毎日すぐ近くで人が焼かれているのを見ながら、そしてその臭いを嗅ぎながら自分が焼かれることになるその日まで、それこそ自分の死をじっと見つめながら待っているということになるのか...凄いと思った。

 焼く台は上流の方の値段が高くなるとの事。晴れ渡った青空の下、下流側の二つの台で死体が焼かれていた。煙がかなり上がっており肉を焼く臭いが強烈に鼻を突く。そして新たに鮮やかな黄色い布に包まれた死体が四人の男達の肩に担がれて上流側へ運び込まれて来た。まず台には置かず川の流れの方に持っていく。死体を清めているのであろう。我々はそこからはかなり離れた所にいるのだが、その死体を見ながら生前はどんな人であったのか、家族は今どんな気持ちでいるのか、などと考えてしまう。   輪廻転生を信じるヒンドゥー教徒にとって、死体は魂の乗り捨てたただの壊れた物、灰はそのまま川へと流され墓は作らないという。なにかさっぱりして、潔いとも思うが残された人々はそれで寂しくはないのだろうか?

...などと思いにふけっていると、額に黄色い線を何本も塗り付け、赤い目をしたゾンビのようなサドゥー(ヒンドゥーの行者)がこちらを睨みつけている?と思ってギョッとすると、実は微笑みかけているのだと気づき、こちらも微笑み返すと、ゆっくり近づいて来たので又ギョッ!

 「彼はホーリーマンでブレッシングをしてくれます。お金は気持ちでだいじょうぶ。」とガイドが言うので、なすがままになることにした。彼は赤い顔料が入っている箱を取り出し、それを親指にまず付け、何かの小さい木の実と一緒に、我々1人づつ額の第三の目にあたる所に念を込め押し付けた。その時の彼の目は凄かったが、こちらに恐怖心を与える、という目でも無かった。何か少しポーッとしたような気分になる。もしかして彼は歩くドラッグか?お金をあげると両手を額の所で合わせ、深々とおじぎをした。

ポーッとしたまま奥の方へ向かって階段を登る。他のホーリー マン達がテリトリーでも有るのか、それぞれの場所に陣取っている。そして手足の無い、又は手足の膿んだ(らい病?)乞食達がうめき声をあげるなか、かなりアグレッシブそうな猿達が走り回っている。少し気が滅入って来た。

そのうちの一人ミルク・ババというホーリーマンは本当にミルクだけで生きているという。経済的だ。顔を見るとほんとうに静かで、深淵な目をしている。それにお金は受け取らない。本当の聖者かも、と思う。ガイドも彼には敬意をはらっているようである。しかしここにいるのは殆どが観光客相手の聖者で、要するに大道芸人のようなもの。ほんとの聖者達は外などには出てこず、川のそばの洞窟にこもり修行しているという。その洞窟の前まで連れて行ってもらう。外からでは何も見えないが、こんな所で修行している人々を想像すると頭が、クラクラしだしたので境内の外に出た。

近くにマザーテレサの創ったシェルターがあり一般にも公開されている、というので行ってみる。死を待つしかない、お金も身寄りも家も無い病人達を引き取り看取ってあげる所である。

そこで人々は思ったよりのんびりと、くつろいでいるように見えた。ここに入れて幸運だったと思っているのだろう。まだ元気な人々は外でひなたぼっこをしながら話しをしている。 部屋の中は日当たりもよく清潔だ。そこにあったドネーション・ボックスにお金を少し入れると、ベッドに寝ていた人がわざわざ体を起こし、僕達に手を合わせた。その感謝の表情がとても美しかったので、こちらにまでその感謝の気持ちが乗り移ってしまったかのように、胸に何かが込み上げてきた。

そこから歩いてボダナートへ向かうあいだ、ガイドと世間話などする。彼はまだ若いので結婚はまだ2、3年はするつもりはない。その前にお金を貯めてインド等に旅をしたいという。途中の道はのんびりとした、四方に畑のある田舎の道だ。民家が散らばり、野外共同浴場では青年や子供達が歓声をあげている。この辺りにはガイドの知り合いも多いらしく、たびたび声をかけあっている。「おい、日本人の客見つけて今日は景気がいいなぁ。」などと、からかっている者もいるようだ。

町の中に突然、白っぽいドームの上にブッダの目を描いた仏塔が出現した。そこに登りガイドの説明を聞きながら町を見渡し少しぼーっとする。下に有るスピーカーから何ともエキゾチックな音楽が流れて来る。これは、ネパールの音楽?とガイドに訊ねるとチベットのだそうだ。たぶん聖なるお経の一説なのであろう、同じ言葉が音楽に乗り、えんえんと繰り返される。この塔とこの周辺は、チベット仏教の主要な巡礼地なのだそうだ。

下に降り、喉が渇いていたのでコーラをガイドと外で待っているドライバーの分も含めて買う。とても高いので驚く。またボラれたかな、と思ったがネパールでは缶入りの飲み物は、どこでもとても高いと後で知った。一食分ぐらいするのだ。ビンのだとそうでもないのだが、その代わりその場で飲んでビンを返さなければならない。

門を出た所でドライバーが待っていた。コーラを渡そうとすると、びっくりした様子でガイドの方を見る、ガイドがもらっておけ、というふうにうなずく。きっとその場で飲むのはもったいないと思ったのか、二人とも最後まで手をつけず持って帰るつもりのようだ。

そこからスワヤンブナートへ。トゥクトゥクの後部席に奥さん、ガイド、僕と三人乗り込む。タイのトゥクトゥクと比べると全体的にかなり小さく、席は奥行きが無い。道路はタイと比べ物にならないほど、排気ガスが凄く、でこぼこでしっかりつかまっていないと、いろんな所に頭などをぶつけることになる。

ふとガイドの横顔を見ると、我々と話している時のフレンドリーな表情とはうって変わって、やけに思いつめたような厳しい表情をして前を見つめていた。そしてこちらを向く時、急に表情が変わるのが少し気になった。
12/10/00
バザールにて
良く寝たせいか、薬のせいか、二人共かなりましである。僕のゲリの方は何が原因だかわからない。ナマモノには気をつけて何も食べていないはずなのだが。 近くのホテルのレストランでバナナ クレープ、ハッシュド ポテトで朝食。ここも寒い。切ってある果物にも注意しろ、という事を思い出し、食後、薬を飲んでおいた。

マネーチェンジャーに行くが閉まっている。どうしようかと思っていると、でかくて目つきの悪い男が近寄って来て、僕が変えてやるからついて来いと言う。注意注意と思ってついていくと、道を渡った所の彫刻屋に入って行く。何とそこのオーナーであった。レートを確かめ、変えてもらうドル紙幣を渡す。オーナーと僕の奥さんそれぞれの計算機を取り出し、何ルピーになるか確かめ合う。オーナーは手金庫からネパール紙幣を取り出しかぞえ、こちらの目をみすえながら僕達の前に一枚一枚置いていく。それを僕達が確認。何も問題無く終わり、オーナーと握手して店を出た。当たり前の換金をしてもらっただけなのに、何もトラブルが無かったというだけで、相手がとても良い人に思えてきた。  

バザールを通ってギミレ氏の旅行代理店に向かって歩きだす。ここには両側に生活用品を扱う店がぎっしりと並んでいる。とても古い建物ばかりでエキゾチック、中近東を思い起こさせる、ごちゃっとした迷路のような町並みである。店の人々がカタコトの日本語で呼び込みをするが、ここは生活用品が主なせいかしつこくはない。そこを抜けると、一般道路になり急に車が増え空気がとても悪くなった。歩道には乞食が多い。こんな空気が悪く砂埃舞う所で、一日じゅう地べたに座りこんでいるのだ。乳飲み子を抱えた者もいる。又ここは野良犬がとても多い。犬達は夜行動するので、昼は疲れきって道の至る所に、ぼろきれのようになって眠っている。歩道の真ん中や、車のたくさん通る所に平気で寝ているので危なくてしょうがない。それにかなりの犬が皮膚病に罹っているようだ。

オフィスには奥さんの瞑想友達が来ていた。ギミレ氏がよんでくれていたのだ。ネパール、ヒンドゥー教の話しなどする。ここはとても宗教的な国で有るのだから瞑想なども、とても盛んで日常生活にとけ込んでいるとばかり思っていたのだが、一般の人々にはあまり縁が無い、との事で驚く。ここには寺以外にも至る所に祠があり、いつでも人々は御供え物を捧げ、祈っている姿を目にする。しかし僕達が抱いていた、いわゆる、宗教的な、というイメージとの間には少しのずれが存在しているように感じてきた。後でインドを旅するうちに、このずれの正体を肌で実感する事になっていった。

明後日からのヒマラヤ・トレッキングのうちあわせをして、タメルという地域にヒマル氏とそれに必要なダウン、寝袋、手袋、登山靴、サングラスなどをレンタルしに行く。その後今日はナガルコットという山の町に行くので、ヒマル氏にそこへ行くローカルバスの停留所まで送ってもらった。バスといってもバンのようなやつで、そこにいる係りの人が行き先を叫んでいる。自分達の乗るバスを見つけ後ろから這い登った。どういう訳か前からは乗れないようで、みんな後ろからよじ登っている。埃を巻き上げバスは喧騒の中を出て行く。

バクタプルという古くやはり埃っぽい、赤茶けた町で乗り換え。ここでバンはさらに小さく、古くなる。奥さんが急にトイレに行きたくなり、トイレットぺーパーを持って(この国ではいつも持ち歩いていなければならない。)探しに行った。 ここでは英語が通じないので、僕は手振り身振りで、バンの車掌と思われる人に今彼女はトイレに行ったので、帰って来るまで待っていてくれと伝える。

‘ノリタケ’と僕の奥さんが記念写真
僕の顔の右側の白いところが半分雲に隠れているがヒマラヤの山々である。
奥さんは公衆便所があまりにも汚く、ひどかったのでツーリスト・ハウスで使わせてもらったが、果たして本当にトイレであったのか?真っ暗で何にも見えず、ただ臭い所であったと言っている。知らぬが仏とはまさにこういう事か?

バスに這い上がる。地元の人々ばかりで、ある客は二羽の足を縛られ生きている鶏を持って乗り込んで来た。今日の晩飯か?その鶏しばらくは騒いでいたが、バスが走り出すと覚悟を決めたのかおとなしくなった。バスはなかなか味のある田舎の町中をガタガタと走る。決まった停留所というのは無いのか、客次第で止まって行く。 ある所では客が自転車をバンの天井に乗っけるのを車掌が手伝ったりしていて、何ともなごやかだ。車掌はお金を集め、発車する時の合図であるのか、後ろのドアのあたりをガンガン、ガンガンと叩く。最初は何が起こったのだろうか?!と思う程大きな音でである。

ナガルコットに着きバスを降りて、田舎道を山の方へ向かって歩き始めた。ここはさすがに空気が澄んでいるのでうれしくなり、おもいきり吸い込んだ。20分ほどで予定していた今日の宿、アト・ジ・エンド・オブ・ユニバース(宇宙の果て)というSF的な、すごい名前のロッジに着いた。部屋は新しく清潔で山小屋ふう。だが暖房無し。ホットシャワーは使う一時間くらい前に知らせて欲しいとの事。それから沸かすのか? 部屋に荷物を置き散歩に出た。

小さなグロッサリーショップの前を通りかかると、「はぁーい、ノリタケ、ノリタケ!」と訳のわからぬ日本語が聞こえて来た。えっ?と思ってそちらを見ると、ノリタケがいた...いや、そこの主人が自分を指さし、ノリタケ、ノリタケ、と言っているのである。コメディアンの、‘ノリタケ’そっくりさんである。日本人の誰かが面白がって似ていると教えたのであろう。商売熱心な彼はこれ使える!と思ったのであろう、店の横には「ノリタケの店」と大きな看板まで立ててある。大笑いしながらチョコレートを買ってしまった。

‘ のりたけ’の話しで奥さんと盛り上がりながら、見晴らしの良い所を歩いていると、なんと突然ニューヨークヤンキースの帽子をかぶった地元の人が歩いて来たので、嬉しくなり、今年も優勝したな、しかも四年連続!と言ったのだが、彼は、ニューヨーク?、ヤンキース?と言うと、そのまま歩いて行ってしまった。どうやら野球とはあまり関係なく、ただ誰かから貰っただけなのだろう。

期待していたヒマラヤ山脈は雲がかかって見えないが、夕日が美しく見とれていると、ヒマラヤの写真いらないか、と物売りが寄って来たが「それ、持っている。」と言うと去っていった。これ断る時の新しい作戦。かなり効果ありと思っていると、今度は男の子2人、女の子1人のハナタレ小僧三人組が僕達を見つけると走って来た。「ヒマラヤの写真買わないか?」 「それ持っている、もう買った。」と我々。

すると「もう一枚買わないか?」ときた。なかなか手強い。

「二枚も何でいるんだよ?」と僕、

「友達にお土産買わないのか、友達は大切だろ?」...大きなお世話だ。

とにかく持っているのだからもういらない、で押し通し無視してもと来た方へ戻りだしても、ハナタレ小僧軍団ついてくる。

「じゃあ金くれ!」、コラコラである。「金は持っていないのだ。」と言うと、嘘つき、という目でねたましそうにこちらを見る。そしてまだついて来る。

「じゃあペン持っているか?くれ、何かくれよぉーう。」

ネパール、インドの子供達は、(いや実は大人もそうだったのだが)日本製、又はアメリカ製のペンをあげるととても喜ぶ、と旅行の本に書いてあったので、たくさん持って来ているのだ。が、今ここで彼らにあげたならばどうなるか、だいたい想像がつくのだ。この辺りは一般の家も多く子供もたくさんいそうである。彼らはまず友達に見せるであろう。見せられた子供達は僕らの所にやって来て、ぼくにも!わたしにも!が始まるに違い無いのである。そして又僕はネパール空港のイミグレーションで見た、旅行者に対しての注意事項のある一項目を思い出していた。それは、{子供達にお金、又は物をねだられても、あげないでください。それは彼らの自尊心をむしばみます}というものであった。又旅行者達が、あーら可愛いで、面白がってあげた物が子供達にとって喧嘩の元になる事も有るのだろう。少なくとも誰か大人のいるところ、もしくはどこかにドネーションとして渡した方が良いのでは無いかと思い始めていたのだ。

とそんな事を考えながらホテルの方へ戻り始めた。子供達は諦めたのかもうついてこない。 山の上だけあってやはりかなり寒くなってきた。このままもっと冷えてくるのだろうと思い、ノリタケの店でラムを買った。

部屋に戻りあと一時間ぐらいしたらシャワーを使いたい旨を伝え、下にあるレストランへ。窓を大きくとってあり、目の前に広がる暮れ行く谷を見晴らせるとても素晴らしい所だが、やはり暖房無し。寒いのでお湯をもらい、それでラムのお湯割りを作り飲む。僕達以外客はいなく、照明は暗め、ジャズとネパール音楽とフュージョンがフュージョンしたような(少しややこしいが頭の中がコンフュージョンしないように。。。)CDがかかっている。誰の演奏かと、見せてもらうとヤン・ガルバレーク。キース・ジャレットとも何枚もレコーディングがある人である。これは彼がネパールのミュージシャン達を使ってECMでレコーディングしたものであった。なかなかエキゾチックでこの場所にぴったり。これはここのコックであり、ウェイターであり、フロントであり、湯沸かし係り、その他何でも係りの彼の好みだそうで、とてもセンスが良い。

お湯割りを飲みながら、暗くなっていく大自然を神秘的な音楽に包まれて味わうこと一時間、注文した料理ダルバート(カレー定食)が出てきた。ここネパールでは(インドでもそうであったのだが)注文してから出てくるまで、たいがい一時間ぐらいはかかる。おそらくジャーや冷蔵庫が無いので、すべて最初から作るのであろう。ご飯も炊くところから始まるようである。しかしここは待たされたかいあって、美味しかった。

部屋に戻りシャワーを浴びる。ゆっくり浴びていると冷たくなってきたので、急いで飛び出し、あるだけの服を着て寝袋にもぐり込み、ラムの残りを飲み干した。

12/11/00
ロッジの庭で洗濯物を乾かす
山の勾配は段々畑になっている
朝の5時ごろ少し目を覚ますと、水滴でくもった窓ガラスを透し、輝いているものがある。何かと思って少し開けてみると、ちょうどその開けた窓枠の部分にすっぽりおさまり、まるで生きているような真ん丸な月が僕に微笑みかけてきた。そのあまりにもの屈託の無さにこちらも笑ってしまい、そのまましばし見とれていた。寒くなってきたので窓を閉め、もう少し寝ようと目を閉じる。閉じた目の奥で月はまだ笑っていた。

結局七時ごろ起きて宿の見晴台へ登った。ヒマラヤの山々は雲に覆われすべては見えないが、それでも素晴らしい。雲が晴れたらよいと願いながら、ノリタケの店に朝食にいく。ただの平屋なのだが、屋根にテーブルをおいて、そこでヒマラヤを望みながら食事ができるようにしてある。

 壁に立てかけてあるハシゴでそこに這い登ると、日本人と思われるカップルがいた。ノリタケさんはその急なハシゴを、両手に料理を持ちながら楽々と上り下りしている。僕達はパンケーキ、オムレツをたのむ。

彼らはやはり日本人夫婦だった。二人と今までの旅の話し、彼らの飛行機がエンジントラブルで飛ばず、飛行機会社の負担でパキスタンに滞在できたこと。人がすずなりになって乗っている金ピカのバス、人々がアグレッシブでとてもエキサイティングで面白かったこと、免税店でのおつりをめぐってのやりとり、又これからの予定などを話した。僕達ここは今日で帰るのだが、これからの予定で彼らとダブッっている所があるので又会えるかもしれない、と言って別れた。

部屋に帰り洗濯。庭の木にロープを張って乾かしていると、子供達がやって来てお金をせびり始める。服装からして彼らはそんなに貧乏だとは思われないが、何とも惨めな声を出す。無視しているとそのうちの一人、ハナタレ小僧が小さな野の花を採ってきて、こちらにうったえるような目で差し出す。オーなかなかやるなぁー、と思うが、他にも子供達がたくさん近くで遊んでいるので、一人に渡せばどうなるか想像がつくのでひたすら無視。しばらくしてもう諦めたのか、他の子供達のいる方へ走って行って元気に皆と遊びだしたのでほっとした。

宿の主人がやって来て、日焼け止めをぬっている僕達に自分にも少しぬらせてくれという。真っ黒に日焼けした、もろ山男が言うので可笑しく思い、これ日焼け止めだけど、と言うと驚いた顔をして笑いながら手をふった。彼は何か良い香いのするコロンとでも思ったようだ。そしてなんでまたそんな物をぬるのか理解に苦しむ、とでもいうような顔をして笑っている。オゾン層としみ、スキンキャンサーの関係など話そうと思ったが、全く場違いな気がしたのでやめた。しかしこんな大自然の中で暮し、そんな事など考えた事もないであろう彼が、もし我々先進国といわれている国が作り出している地球規模の公害によって、なにか被害を被った場合一体誰がその責任を取るというのだろうか。やはり、塗っておきますか?そんな簡単な問題では無い。

彼が向こうの方へ行ってしまうと、またさっきの子供達が来た。そして彼が戻って来るのを見つけると逃げて行くので、大人にはそういうことをするなと言われているのだろう。

彼と世間話などをしていて、アメリカ人や日本人の老後の話しになった。アメリカや日本では、ほとんどの人達はだいたい六十歳位で定年して、後はのんびりと退職金や年金などで暮していくのだ、という話しをうらやましそうに聞いていた。ここでは年をとって働けなくなると、どうなるかわからない。だから子供はたくさん作っておいた方がいいということになる。しかしそうすると貧乏が貧乏を生み出すという結果にもなるのだが、彼らにとってはどうしようも無いことなのだろう。そんな話しをしていると、すべて当たり前だと思っていた、アメリカや日本での事などを改めて考えさせられた。

何度か見晴らしの良い展望台のような小山に上ってみるが、残念ながらヒマラヤ山脈にはずっと雲がかかっていて、ほんのいくつかの山の頂上あたりしか見えない。 この小山にはヒンドゥーの祠があり、そこに正装した若者を中心にした人々がやって来て儀式を始めた。赤い色をぬられた羊を連れて来ているので、ここで生け贄を捧げるのかと思ったがどうやらそうではなかったようで安心した。

結局十二時半ごろ洗濯物もほとんど乾いたので、ヒマラヤ山脈の眺望はあきらめ帰途につく事にした。 帰り道、広場で遊んでいる子供達発見、来るぞ来るぞと思っていたらやはり来た。お金くれ、そのものが遊びの一種になっている感じなので適当に相手になる。向こうから大人が歩いて来ると、子供達ははじかれたように元の広場に向かって走って行った。 帰り道にある銀行で両替してバス停まで。カトマンドゥ行きのバスに乗ったとたんに奥さんが寝袋を銀行に置き忘れてきたのに気がつき、降りて引き返すと、カウンターの下にそのままあった。

バス停の横にある店でクッキーを買い食べていると、四、五才のぼろぼろの服を着た女の子が、こちらをほしそうに見つめているので手招きして少しあげた。そこで食べようとするが、そばには他にもたくさん子供がいるので、見つかると面倒な事になるかもしれない。手振り身振りであっちの方へ行って食べるように言うと、大事そうにクッキーを両手に抱えて向こうの方へ歩いていった。

学校が終わる時間ででもあるのか、制服を着た子供達がいっぱい歩いている。そして同じような年頃であるのに、ぼろを着た子供達もいっぱいいる。彼らは学校には行ってないのであろう。そのなかの一人はTシャーツ一枚で他には何も着ていない、おしり丸出しであった。

五時頃カトマンズに戻って来て今度はタメルという地域にあるマムズ ゲストハウスというところにチェックイン。最初に泊まったセンチュリーロッジと同じ値段だが今度は一応部屋にバス、トイレがついている。しかし便器など、まともに見られないくらい汚く、シャワーを浴びる時もサンダルを履いてでないと、とても入る気になれない。しかも部屋中にトイレの匂いが漂っている。

ギミレ氏のオフィスへ明日からのトレッキングには持っていかない荷物を預かってもらいに行く。その後宿にいったん戻り、その辺りで絵はがきを五十五枚買った。 夕食はどうしようか、と思っているとコーリャンレストランの看板を見つけたので入ろうとするが、どこにも入り口がないので傍にいた青年にきくと、それならこっちだと、どんどん歩いて行ってしまう。あの看板はいったい何だったんだ?と思いついて行く。きっとあの店はもう無くなっていて他のコーリャンレストランにでも連れて行ってくれるのかとも思い、かなりの道のりをついて行った。いったいあとどのくらいあるのか?ときくともうすぐそこだという。しかし道はだんだんと暗くなっていくし、人通りも少なくなってきた。こんな辺りにレストランなどあるのだろうか?薄気味悪くなってきたので、「もういい、遠すぎる。」と言って戻ろうとすると、「あと少しだから!」と言う。とにかくおかしいと思い、それでも一応お礼を言って、もと来たほうへ戻る事にした。何かたくらみがあったのか、ほんとうに店がその辺りにあったのかは、謎である。

さっきの看板の所に戻りもう一回レストランを探してみるがやはり見あたらなかった。その付近の店の人にきいても誰も知らない。大きな看板だけがこうこうとついている。ミステリーだ。

結局あきらめてその辺りのレストランに入り、スパゲッティー、キーマカレーを注文。スパゲッティーだというものは油っぽく、麺はそうめんのように細くぐちゃぐちゃで、これいったい何?という代物であった。半分も食べないうちに胸やけがしてきて最悪。カレーのほうはおいしい。

明日はトレッキングにヒマラヤまで行く。どきどきしながら十時ごろ寝た。